国道140号を挟んで、秩父鉄道黒谷駅と対象の地点に当たるのが和銅山です。国道から東に向かい、聖神社の下を過ぎ、案内板・道標に従って15分程歩くと、露天掘跡に着きます。高さ5メートルもある「日本通貨発祥の地」と記された『和同開珎』のモニュメントが建てられています。流れている沢は、「銅洗堀」です。そこに立てば、南東面にそそり立つ和銅山に、二条の露天掘跡が山頂に向かって続いているのが眼に入ります。沢に架かる橋を渡り、和銅山中腹まで続く見学道の階段に沿って登れば、断層面をえぐる和銅の採掘溝を真上から覗くことができます。
ここ和銅採掘露天掘跡は、地殻変動によって秩父古成層と第三紀層の断層面(出牛黒谷断層)に、露出した自然銅が発見され採集されたところです。これを歴史的に見れば、ようやく国家の形態が定まりつつあった大和朝廷にとって国威を発揚し、貨幣制度を整えるのに願ってもない好機となった一大慶事の桧舞台ともなったところなのです。
その「和銅」の歴史に名をとどめるのは、催鋳銭司の多治比真人三宅麻呂、発見・採掘に深い関わりがあったであろう日下部宿禰老、津島朝臣堅石、金上无などがいます。多治比真人三宅麻呂は、国の特別史蹟「多胡碑」に名が刻まれているほどの人物ですし、金上无は新羅からの渡来人で、和銅献上時無位であったにもかかわらず、従六位下の老、堅石と並んで一躍従五位下に叙せられたところからみて、その貢献度の高さが抜群であったことが想像できます。
祝福は広く一般にも行われ、大赦、恩賞、昇叙等と共に、秩父郡の庸(力役の代納物)と調(特産物貢納)、武蔵国の庸が免除されました。
このように悠久の歴史の襞を刻んで、今、「和銅」は静寂の中に佇んでいます。和銅沢のせせらぎと共に、「和銅」が語りかけるものが何であるか、しばし足をとどめて耳傾けてほしいものです。
1300年前の和銅献上の桧舞台。埼玉県指定旧跡