最も基本的な事実から確認しておこう。武蔵国秩父郡で銅鉱石が発見されて朝廷に献上された。露天掘りによる純度の高い自然銅であった。当時の言葉では、「熟している」とか「やわらかい」ことを「ニキ」(時代が下がると「ニギ」となる)と言って「和」の字を当てた。そこで、熟していて柔らかく割合簡単に鋳造できる銅なので「和銅」と呼んだ。その頃、日本の国で一番欲しいものの一つであった和銅が出たことは大変おめでたいことだと喜んだ朝廷が、和銅にちなんで改めた年号なので、「和銅元年」となったのである。
記念に発行されたとされるお金は、年号と違って「和同開珎」と名づけられた。この「和同」という貨幣の名前(銭文)が、実は「チン」か「ホウ」かの読み方と大きく関わってくるのである。和銅が献上され、和銅と改元された年に造られたお金だから、「銅」の字を略して「同」にし、当時広く使われていた唐のお金の「開元通寳」にならって、「寳」の一部から採って略字の「珎」にして「和同開珎」という名前にした。寳の略字であるから「珎」は当然「ホウ」と発音し、「ワドウカイホウ」だというのが江戸末期から明治にかけて普通の読み方となって長く続いてきていたのである。然し、今は「カイチン」が大勢となっているが、そのことの解明の前に考えねばならない大事な問題が二つある。一つは、銭文と年号の関係、もう一つは漢字と略字の問題である。
『「和同」は、年号の「和銅」を簡略にしたもの』という考えは、貨幣の名前には年号を入れるという前提があるように思われる。そこで当時鋳造された貨幣の名前を調べてみる。中国では非常に古く紀元前三世紀頃から丸い形に四角の孔(円形方孔という)のある銭が造られており、宋の孝建元年(西暦四五四年)には「孝建」という銭が鋳造された。これが年号を使った最初のものと言われている。唐の乾封元年(六六六年)「乾封泉寳」というのも造られた。ところが日本の「和同開珎」の手本になったという「開元通寳」は、武徳四年(六二一年)の鋳造であって年号には全く関係のない貨幣である。その頃、中国を除くアジアの国々の中で貨幣を造ったのは唯一日本だけだったが、日本では和銅元年(七〇八年)の「和同開珎」をはじめとして、以後百五十年の間に十二種の銅銭が造られたのである。これを皇朝十二銭というが、その銭文と鋳造年号をまとめてみる。(銭文通りの漢字にしてある)
(和銅元年・708)
(天平宝治四年・760)
(天平神護元年・765)
(延暦十五年・796)
(弘仁九年・818)
(承和二年・835)
(嘉祥元年・848)
(貞観元年・859)
(貞観十二年・870)
(寛平二年・890)
(延喜七年・907)
(天徳二年・958)
このように、年号を使った銭文は十二種の中、(6)(9)(10)(11)の四種で必ずしも深い結びつきはないようである。
そこで、音は同じでも年号に関係がない「和同」という文字(言葉)は何かということが問題になろう。中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」というような使われ方で、「和らぎ」とか「調和」の意味があって、よいことの前兆を表す言葉としての「和同」を銭文にしたというのが一般的な見方であるようだ。その時、年号の「和銅」と同音であることも、又よいことだという考え方もあったであろうが、かえって混乱を生むもとにもなったと言えるようである。
和同銭に関して一番問題になる文字は「寳」と「珎」である。というのはこの二字をめぐって「カイチン」説と「カイホウ」説に議論が分かれるからである。そこで、この二字の履歴をまとめてみる。
※ (1)(2)で、ウかんむりと貝の間の字形が違うことに注意
※ →印の順に略されていったことに注目
(1)の寶(本字―略字に対して正体の漢字)→ (2)の寳((1)の寶の異体字―標準字体以外のもの)→宝((1)の寶の略字)
【意味・大切にする貴重なもの。たから、金銀、珠玉の類。】
【意味・貴重。たやすく得られない、滅多にない。】
現物としての銭貨「和同開珎」は、日本以外にまで及んで各地から多量に発掘、発見されている。その科学的研究の結果、質量分析などという方法によって、「和同開珎」は間違いなく和銅の時代に日本で鋳造されたことが証明されている。然し、読み方(発音)や銭文の意味や由来になると、書き残されたものの分析や、周辺の諸事実を総合した多くの研究によるより他に確かめようはない。そこで、古今の学者、研究者の研究成果をもとにしてカイチン説とカイホウ説の大まかな言い分を考察してみることにする。
和同開珎の「珎」は、「珍」の異体字という立場に立っている。だから、音としては当然「チン」となると主張する。確かに漢字の出来方から見て、(1)の寶と関連づけられる点を見出すことはできない。「カイホウ」説のいう(2)の寳の字の一部「珎」を抜き出して略字としたという意見は、漢字の出来方を無視していることになる。珎の形を含む(2)の寳が本字ならば「珎」を略字とも考えられないことはないが、もとになる(2)の「寳」は既に略されて寶の異体字になっているので、異体字のそのまた略字を想定することは、どう見ても理屈に合わない。
ところで、カイチン説の裏付けとなるものとして、正倉院の古い文書にある「国家珎寳」という文字がよく引き合いに出される。珎が寳の略字だとするならば二つ重ねるのに別々の「ホウ」の字を使うという奇妙なことになるので、これは「国家チンホウ」であって、珎は珍の異体字として当時常用されていたという事実に基づく「カイチン」説の有力な資料である。
さらに「カイチン」という音の資料もある。和銅銭のことが文書の上に現れたのでは、平安時代末期の歴史書「日本紀略」に「和銅開珍」とあるのが一番古いものと言われている。書かれた文字は銭文とは大分違うが音としては間違いなく「和銅開珍(ワドウカイチン)」と読める。
年号「和銅」については「カイチン」説は、年号の和銅と銭文の和同とは字が違うように、年号に関係はなく、中国の古典にある吉祥語から採ったもので、「開」の意味する「始める」と、宝物のことを言う「珎」とで、「始めてのお金」の意味であると言うのである。(このことに関連して、和同開珎は和銅の年号に関わりなく、それ以前に造られたのではないかという古い研究もあるが、富本銭との関係などで、別の機会にあらためて紹介したい。)
カイホウ説は、当時の貨幣の銭文には殆ど(2)の寳(ホウ)が用いられているということから見て、寳に含まれる珎だから和同開珎の珎も他の銭文の寳と同じで、珎を寳の略字と考えているのである。もう一つは、和同の年号と銭文とを関連づけている。和銅の銅の金偏を取ってしまって「同」とし、寳の珎を生かした略字「珎」にして「和同開珎」としたと主張する。だから音は「ワドウカイホウ」であると言う。このことは、和同開珎の約五十年後に発行された「神功開寳」とも連動していると言う。神功開寳が発行された時は、和同開珎がまだ使われていたので、和同開珎の銭文の意味も十分知った上で、神功の「功」を略さないのだから寳も略さずにそのまま使ったというのである。なお、当時は、同じ意味ならば字の形は異なっていても、同じ音で読む習慣はそう珍しいことではなかったから、寳と同じく珎を「ホウ」と発音してもおかしくはないとしている。
カイホウ説の古い資料では、東大寺伎樂面の「天平勝珎」の文字がある。明らかに年号の「天平勝寶」のことである。年号の字を書き誤ったとは考えられないとすると、「珎=寳」もあながち考えられないことではないとするものもある。然し、寳を珎に置き換えた例は今までにこの一例しかないので、「うっかりミス」という考えの方が妥当のようである。
当時の残された資料の中で、年号に「和同」を使ったものは一つもないこと、又、珍を珎とした事例が多くあることなどから見て、さらには漢字そのものの[ 寶→寳→宝 ]、[ 珍→珎 ]の流れから見て、カイチン説が定説になりつつあることは事実である。NHKはじめ、最新の歴史書、歴史辞典等の出版物は殆ど例外なくすべてカイチンで通している。学校の歴史の教科書を見ても、中学校ではカイチンと仮名をふり( )でホウと付け加える「カイチン(ホウ)」型であり、高等学校でも7種の中、カイチン(ホウ)型が5、カイチン、カイホウ型各1となっていて、学校教育の中でも大方はカイチンに統一する方向である。
「チン」「ホウ」論もさることながら、飛鳥池遺跡からの富本銭が、従来の富本銭説に大きな波紋を投げかけている今日この頃である。そんな時、わが埼玉県の郷土研究誌である「埼玉史談」誌上に、既に昭和十三年(今から六十一年前)入田整三氏は「和銅と和同開珎銭」という論文を寄せて、「和銅元年、秩父郡献上の銅は自然の熟銅であり、和同開珎はわが国最初の金属貨幣であり、鋳文和同は年号の和銅とは無関係であって、開珎の珎は寶ではなく従って「チン」と読むべきである」と、詳しい論証を挙げた上で喝破している。この洞察力にはあらためて敬服するものがある。これは、現在解明の進んでいる富本銭と和同開珎鋳造時期をめぐっての深い関わりや接点を、既に半世紀以上の昔に、今を見通して論究しているようにすら思える。まさに卓見と言っても過言ではないであろう。