昨年の秋(平成7年10月24日~12月3日)、埼玉県立博物館で、特別展「古代東国の渡来文化」が催された。ご覧になった方もあろうと思うが、「東国にきた渡来人-移住から定着へ-」のコーナーに、以前この会報で紹介したことのある「多胡碑」(複製)と、吉井町立郷土資料館の「羊太夫伝承関係資料」3点が展示された。
図録の解説に「古代東国にきた渡来人は、現代に生きるわれわれの周辺で、時としてその姿をあらわすことがある」とあったが、羊太夫に関して言えば、まさに和銅の地にある私達の最も身近に頻繁に現れる「伝承の人物」なのである。
多胡碑のある吉井町の町誌によると、多胡碑は、土地の人達からは「羊様」と称され、神様として祀られ、又、羊太夫の伝説で大層親しまれてきたという。これは、秩父地方でも言えることで、随分いろいろなところに羊太夫にまつわる話が残っている。小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。この「お塚(古墳)」は小鹿野町指定史跡になっている。文化財解説によると「お塚」とよばれるこの古墳は、長留川左岸の段丘に位置し、高さ3米、直径15米の円墳である。墳項部には「お塚権現」と称する小祠が祀られている。古墳時代後期、7世紀ごろのものと推定される。地元では「お塚」を羊太夫の墓とする言い伝えがある。羊太夫とは群馬県吉井町にある多胡碑にまつわる伝説上の人物であると思われ、当地域の伝説との関連が注目される。」とある。そして、俗に「お舟観音」と呼ばれる札所32番法性寺には羊太夫が納めた大般若経があったという。さらには、札所1番の四萬部寺の経塚は、羊太夫が納経したとも言われている。このように広く分布している羊太夫のお話は、各種各様で、歴史的事実もちりばめられていて、仲々1つに絞って紹介しにくいものがあるが、共通的な大筋を童話風にまとめてみるとこんな風になろう。
「羊太夫は、奈良まで(和銅を持って)毎日、天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復した。太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、天皇の怒りをかった羊太夫は討伐されてしまった。」ということになる。
今でも、吉井町には羊太夫が乗って天から降りて来た「舟石」という石があり、「城山」は羊太夫の居城跡だと言われている。馬庭内出の神馬橋は羊太夫の白馬が倒れた所で、傍に竜馬観音世音を祭り、堂内に八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあるという。藤岡市の七輿山(ななこしやま)に羊太夫一族は葬られているとも伝えられている。
このように、各地各所に残る羊太夫の伝説のなかの寓話的な事実を重ね合わせてみると、実にこの話は大きく膨らんでくるようである。一例ではあるが、羊太夫が都へ日参したというのは、多胡郡から黒谷付近に鋳銭司(奈良朝廷の出張所のようなものか、鋳造所)が置かれていて、その間を往復したとなれば丁度1日の行程になると推論する人もある。
いずれにしても、文字資料としては「羊太夫一代記」その他、吉井町周辺に残されたものだけであって、それも江戸末期のものである。しかし、それらの記述が、秩父地方の各所に残っている伝承とかなり一致する部分があることが、何とも興味を惹くところである。さらには、秩父の伝承の場合は、渡来人の採銅・製銅技術と和銅献上とが羊太夫と深く結び付いて語られていることが大きな特色である。
なお、昨年亡くなられた和銅研究者久下司先生も羊太夫に関する詳細な記述を残されている。例えば、七輿山については、羊太夫が討伐された時、7人の姫君を7つの金の輿に乗せて逃がしたが逃げきれず、家来が姫君達を輿と共に葬って厚く供養したので七輿山と呼ばれるに至ったという話を紹介している。確かに現在七輿山は2基の前方後円墳と付近の円墳を含めて古墳群を形成していて、大和とのかかわりの深い人物が被葬者として考えられてもいるのである。しかし、久下先生は「羊太夫は金上无か」という文章を掲げて、はっきりと「史上から見ると、実は金上无と羊太夫は何等の関係がなく全くの別人である。金上无は新羅の帰化人であるが、多胡郡とはかかわりを持っていなかった。だから多胡郡司となったこともなく、また朝敵となって討伐されたということも史上にはない。彼は和銅発見の大功によって東国の辺僻の1郡に居りながら、無位から忽ち従5位以下を授かり、和銅2年11月2日伯耆守に任ぜられ、遠く彼の地へ赴任しているのである。故に多胡郡地方の古伝の如く、和銅4年3月9日新設の多胡郡を賜ったとすることは考証の上からは考えられない誤りである。」と書いている。