秩父に生まれ育ち、明治、大正から昭和十年代までに学校教育を受けながら、「和銅ささげし昔より 人の心のすくよかに 深山をうずむ杉檜 里に織りなす秩父絹 秩父 秩父 わが秩父」という歌詞の含まれた佐々木信綱作詞「秩父郡の歌」を口ずさまなかったという人は、先ず一人もないであろう。その秩父へ鉄道が開通した大正三年(一九一四年)に、上武鉄道唱歌が作られ「汽車の進みよ待てしばし ここにとどまる暇あらば 和銅採掘その跡を 降りて見てこい黒谷より」と歌われた。ここにいう黒谷は、古くは黒谷村であったが大野原村と併わされて生まれた原谷村の大字黒谷である。「慶雲四年のその昔 元明天皇の御代とかや 武蔵秩父の黒谷より 始めて和銅を献じたる 古跡はここぞ祝ひ山 銅銭堀や和銅澤 苔むす巌老松に 今も昔の偲はるる」と、さらに和銅古跡まで歌い込まれたのが、大正四年(一九一五年)作の「原谷村の歌」である。
このように歌い継がれてきた「和銅古跡」に寄せる関心は、又、近年とみに高まっているが、今に始まったことではないのである。明治二九年(一八九六年)には、中川近禮なる研究者が、和銅古跡を探訪し「考古学雑誌」に「武蔵国秩父郡黒谷村鋳銭遺跡」という論文を発表している。昭和に入ると、今でいう「史跡めぐり」というような形で二十人程が団体になっての見学も行われている。最新の学会論議にも充分耐えられると思われる迫力を持った入田整三氏の「和銅と和同開珎銭」が発表されたのは昭和一三年(一九三八年)という早い時期であった。 下って、昭和二十年代の前半、黒谷に腰を据えて和銅の学問的研究を集大成されたのは、久下 司先生であった。昭和四六年(一九七一年)には上山春平先生の案内で梅原猛先生が黒谷を訪れ、名著「塔」を刊行され、その中で和銅の歴史に鋭い洞察を加えられたのであった。
和銅の時代が詳しく記述してある「続日本紀」は勿論、銅銭関係に触れる部分のある「日本書紀」にも「和同開珎」という文字はないのである。然し、数多く広い範囲で発見され、出土する「和同開珎」銭と結びつく諸事実等から見て、和銅の献上によって和銅改元がなされ、そして和同開珎という貨幣が発行されたことは、日本史上の厳然とした歴史的事実として疑う余地はないものとされている。 史書の中で根拠となるのは、「続日本紀」(文武天皇代六九七年~延暦一〇年・七九一年のほぼ一世紀を扱う日本の正史)の「春正月一一日、武蔵国の秩父郡が和銅を献じたので、これを祝して慶雲五年を改めて和銅元年とし、御代の年号を和銅と定める」という記事によるのである。秩父から和銅が献上されて、和銅と改元されたのは西暦七〇八年であり、そこで、発行された貨幣が和同開珎である。
大正一一年(一九二二年)埼玉県指定史跡(昭和三六年に県指定旧跡)となった和銅遺跡の中核は、言うまでもなく「和銅露天掘り跡」である。和銅山頂に抜ける裂け目が下を流れる銅銭堀まで総長百メ―トルを超す二条の断層亀裂面となって、今に昔の面影を残している。地質学的には、出牛―黒谷断層に属する地帯にあり、第三紀層(秩父盆地)と、それ以前のチャ―ト層や結晶片岩との破砕層(秩父古生層と呼ばれていた)との接触部になり、往古、そこの露出面より自然銅が採掘採集され献上されたのである。
同時期に創建されたとされる聖神社には、御神体(御神宝)の自然銅石大小二ヶと、雌雄一対の蜈蚣(百足)などが残されている。自然銅の純度は非常に高く、平成四年(一九九二年)国立歴史民俗博物館の質量分析法という科学的手法による「鉛同位体比による青銅の産地推定」研究で、八世紀初め和銅使用によって貨幣が鋳造されたことが判り、続日本紀の記事が正しいということが自然科学的に立証された。このように、和銅献上は、和同開珎発行という政治的にも大きな意義を歴史の上に残しているのである。
一方、元明天皇下賜とされる和銅製の蜈蚣も、実に巧妙にオオムカデを模して作られているとの埼玉県立自然史博物館の研究(平成五年・一九九三)も発表されている。
和同開珎銀銭
古和同銅銭
新和同銅銭
唐に倣って国造りを進める中でも、日本の独自の国力を示すのに「和同開珎」の発行は大きな力になったものと思われる。その原料となる和銅(ニギアカガネと言い、精錬を要しない自然銅)が秩父(黒谷)から発見され献上されたのだから、朝廷の喜びも非常に大きかったに違いない。慶雲から「和銅」への改元は慶事というより意気軒昂の歓声だったことだろう。然し銭文(貨幣の文字、呼び名)は「和同開珎」(和銅ではない)であった。これは、中国の吉祥語の「天地和同」「万物和同」などからとった「和同」と解するのが妥当であろう。
いずれにしても。御代は和銅となり、やがて平城京(ならのみやこ)へ移り国威発揚へ又一歩、日本は大きく踏み出すことになるが、その都造りの基礎の力の一つになったのが「和同開珎」の発行であったと言えるのである。